野田城の戦い

元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。
元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に寝返った。
甲斐の武田信玄駿河今川氏の領国を併合すると三河の家康や相模の後北条氏、越後の上杉氏と敵対していたが、元亀2年末に北条氏との甲相同盟を回復させると徳川領への侵攻を開始する。元亀3年10月に信玄は浅井長政朝倉義景ら反信長勢力と連携しつつ11月22日に三方原合戦において家康を撃破している。この頃、信長は将軍義昭の命で武田と上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であったが、信長の同盟相手である徳川領への侵攻は事前通告なしで行われており、信長は家康に対して援軍を派遣している。
同年11月、東美濃の国衆遠山氏は織田・武田の両属関係にあったが、遠山氏の岩村城が攻められるなか[18]、当主遠山景任・直廉兄弟が病死する。家督を巡って信長が軍事介入すると遠山氏は武田方に帰属し、武田・織田間の対立が顕在化する。
また、徳川領においては徳川軍が一言坂の戦いで武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀らは討死した。
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。しかも信玄の上洛に呼応する形で、足利義昭が三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。3月25日に信長は三河国にいる武田軍を無視して岐阜から京都に向かって進軍した。信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけたが、4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が急死し、武田軍は甲斐国へ帰国した[19]。