├─≠ョ─ヵラスと中島治康

├─≠ョ─ヵラス 参考文献
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├─≠ョ─ヵラス 旧制松本商業(現松商学園高)でエースとして鳴らし、1928年の夏の甲子園で優勝した。これは現在に至るまで長野県勢唯一の夏の優勝である。早稲田大学に進んで野手に転向。東京六大学リーグ通算18試合出場、49打数12安打、打率.245、0本塁打、4打点。藤倉電線を経て1934年、大日本東京野球倶楽部に入団。
1936年のリーグ戦開始時から巨人でプレーし、強打・強肩の外野手として活躍。1938年秋季には打率.361、本塁打10、打点38でプロ野球史上初の三冠王となった。当時三冠王という概念はなく、戦後になって初めて認定された(1938年は春秋通算でも三冠王)。1943年、監督兼任。1944年応召。1946年シーズン途中に兼任監督として復帰。翌年は開幕からチームが不調で、29試合を消化した時点で監督職を辞した。
1950年、大洋ホエールズに移籍。1951年に兼任監督となったが、またも結果が出ず途中交代となった。同年引退した。中島曰く「人として許し難いことがあった」とここでプロ野球とは一線を引き、読売新聞客員、東京六大学野球連盟理事を務める。
類い希なパワーと悪球打ちで、ワンバウンドした投球をスタンドに打ち込み本塁打にしたという伝説が残っている(本人も否定しており、実際はセンター前ヒットであったと言う)。守ってはその強肩で、ライトゴロを何度か成功させるなどチームのピンチを幾度となく救った(中尾輝三のノーヒットノーラン達成につながったものもある - 『巨人軍5000勝の記憶』p.17)。軍での実績に因み、チームメイトからは「班長」と呼ばれ慕われた。
1963年野球殿堂入り。川上派と長嶋派の対立が激化した1980年代前半、川上・長嶋両者を凌ぐ存在が必要と考えた千葉茂プロ野球界から離れていた中島を巨人軍OB会長に据えた。会長職は1982年から1984年まで務めた。1987年4月21日死去。77歳没。