├─≠ョ─ヵラスと西沢道夫

├─≠ョ─ヵラス ミスタードラゴンズ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 1936年12月、15歳で名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)の入団テストを受け投手として入団。テスト受験当時、品川区立第二日野高等小学校(現・品川区立小中一貫校日野学園)の高等科2年。最終学歴は旧制小学校卒となっているが、プロに進んでから、通信制の旧制鹿児島総合中、日本大学商学部を卒業している。
年齢不足のため1年目は養成選手(練習生)として過ごし、1937年9月5日に公式戦初登板。満16歳と4日での公式戦出場は、現在も日本プロ野球史上最年少記録である。
戦前日本のリーグ戦では珍しい、六尺(身長182センチ)の長身を活かした速球投手として活躍。1939年に6勝をあげると、翌1940年は20勝をあげ一躍主力投手に。しかし以後は好投するもなかなか勝ち星が付かず、2桁勝利はこの年だけであった。1942年5月24日対大洋戦(後楽園球場)に先発。大洋の鉄腕野口二郎と投げあい、世界最長となる延長28回を311球で完投した。同年7月18日にはノーヒットノーランも達成。1943年のシーズンを最後に応召。
1946年に当時の中部日本軍に復帰するが、応召中に肩を痛めていたため満足な成績は残せず。元同僚であり先輩の坪内道典が監督を務めるゴールドスターに移籍し、一塁手に転向。打者転向に3年を費やし、坪内と共に中日に復帰した後はスラッガーとして活躍。1949年に37本塁打を記録。翌1950年は46本塁打を記録したが、史上初の50本塁打を達成した松竹ロビンス小鶴誠(51本)に及ばず、本塁打王は取れなかった[1]。ちなみに、1950年の46本の内、5本の満塁本塁打を放ち、これは現在も日本記録である。
1951年コーチ兼任。1952年には打率.353、打点98で首位打者打点王の2冠を獲得。1954年再びコーチ兼任、リーグ優勝、日本一に貢献。1956年助監督兼任。1958年にもっと再びコーチ兼任、現役引退。
投手・打者として活躍したというだけでも稀有な選手(ほかには近鉄、巨人で投手・打者として活躍した関根潤三など)だが、その双方でレベルの高い活躍を見せた。投手として20勝、打者として40本塁打の双方を記録したのは日本プロ野球史上では西沢だけである。
1963年より中日ヘッドコーチ。1964年シーズン途中から1967年まで[2]中日監督を務め、65年から67年までは3年連続2位の実績を持つ。温情派で選手から慕われた。1977年野球殿堂入りの喜びも束の間、同年12月18日に心不全のため急逝。56歳没。現役時代の背番号15は永久欠番(中日では服部受弘の10と二つだけ)。
没後の2006年、首位打者のタイトルを獲得した福留孝介が、西沢の持つ「3割30本100打点100得点」のシーズン記録にドラゴンズの選手として56年ぶりに到達し、また同年打点王本塁打王の2冠に輝いたタイロン・ウッズが、同じく西沢の135打点と46本塁打の球団記録を144打点・47本塁打でそれぞれ更新した。福留は前年にもこの記録に肉薄しており、また2006年シーズン中盤から地元紙などを通じて、両名とも西沢の球団記録を更新する意欲を見せていた。