ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とバンバークレオ

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 外野手
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ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 1987年6月に西武ライオンズに入団。長身に加え、甘いマスクで、家族共に来日した姿がファンの印象に残った。登録名は最初はバンバークレオであったが、すぐにバークレオに変更されている。
1年目は二軍で過ごしたが、1988年は認められ、一軍の5番に定着して打ちまくり、シーズン途中からの出場にもかかわらず、満塁本塁打4本を含む38本塁打を放ち、チームのリーグ優勝・日本一に貢献(なお、同年の年俸は当時のレートで700万円と格安であった)。
しかし翌1989年以降は変化球攻めに苦しみ低打率となり、監督の森祇晶は新加入したスイッチヒッターオレステス・デストラーデを起用するようになる。桁違いの飛距離を誇るにもかかわらず、当時は外国人は一軍登録二人制のため(エース級の郭泰源もいた)再び二軍暮らしを余儀なくされる。
1991年には広島東洋カープに移籍し、チームはリーグ優勝を果たしたが、自身は活躍できず1年で退団した。なお、同年は二軍でサイクルホームラン「ソロ・ツーラン・スリーラン・満塁」を達成した。
その後はアメリカ球界に復帰し、1993年にカリフォルニア・エンゼルスでメジャーデビューを果たす。翌1994年はコロラド・ロッキーズでプレーした。
1996年からエンゼルスアリゾナダイヤモンドバックス傘下のマイナーで、打撃コーチなどを務めた。2007年から2008年までオークランド・アスレチックスの打撃コーチを務め、2009年からはシアトル・マリナーズベンチコーチに就任。
2010年8月9日、チームの成績不振の為、監督のドン・ワカマツとともに解任された。
西武での応援歌の原曲は、名前にちなんだ「歌えバンバン」。