├─≠ョ─ヵラスとv

├─≠ョ─ヵラス 一軍投手コーチ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 松山商から、1974年のドラフト外長嶋茂雄監督率いる巨人に入団。同球団は当初は内野手として考えていたという報道も見られる。
打撃投手としての登板でも全力投球したり、電車に乗る時につま先立ちをして筋力を鍛えたりするなど、野球に対する真摯な姿勢と並外れた練習量が実を結び、2年目の1976年に敗戦処理ながら対阪神戦で一軍で初登板を果たす。8点ビハインドの8回裏に登板したこの試合では第1打者のマイク・ラインバック本塁打を打たれ、その後も安打を打たれ3失点。同年の一軍登板はこの1試合だったが、イースタン・リーグでは最多勝を獲得した。翌年3年目の1977年には8勝を挙げて一軍に定着し、その後は江川卓とともにエースとして巨人の一時代を支えた。
1980年から1985年まで6シーズン連続2桁勝利を記録した。特に1981年の活躍は秀逸で、18勝を挙げてリーグ優勝に貢献し沢村賞を受賞。この年は江川が投手五冠を成し遂げたが、西本の沢村賞の理由として、開幕ダッシュに貢献した西本と独走態勢に入ってから成績を残した江川との差が評価されたものであるとか、ピッチングフォームが沢村に似ているから、などと説明された。この選考についてマスコミから嫌われている江川から西本に投票が流れたのではないかという疑問が投げかけられ、翌年よりマスコミによる投票からプロ野球OBによる投票へと変更された。
この年はキャンプ中に留守宅の夫人が自宅のガス爆発により重傷を負っていたため、キャンプの仕上がりは不十分であり、シーズン開幕投手の予想の大勢は江川であったという。しかし、当時の藤田元司監督は西本が逆境に強い性格であることを見抜き、開幕投手に指名した。開幕戦を勝利した西本はウイニングボールを持って病院に向かい病床の夫人を見舞った[2]。
1981年の日本シリーズでは1完封を含む2完投勝利を挙げMVPを受賞した。第2戦では、日本シリーズ初の毎回奪三振の記録も作った。(日本シリーズでの毎回奪三振は、以降長きに渡って誰も達成できなかったが、2008年の日本シリーズ第4戦に西武の岸孝之が達成した)
1983年の日本シリーズでは第2戦、第5戦の完投勝利で敢闘賞を獲得した。日本シリーズでの成績はすばらしく、連続イニング無失点記録があるほか、シュートを武器に内野ゴロの山を築いていった西本らしく、内野ゴロ補殺数など多数がある。
1987年4月10日に後楽園球場で行われた中日ドラゴンズとの開幕戦で開幕投手として先発し、この年にロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)から移籍してきた中日の4番・落合博満との対戦で、西本は落合に対し全打席全球すべてシュートを投げた。その結果、1本だけはセンター前にヒットを打たれたものの4打数1安打と封じ込め、自身も完封勝利を収めた。「パ・リーグ三冠王だといってもここはセ・リーグパ・リーグとは違う」というセ・リーグの投手としてのプライドがあったからだといわれている。また『全球シュート』は研究に研究を重ねてたどり着いたのではなく、当日のマウンドで落合と向かい合ったときにひらめいたという。なお、落合はこの年無冠に終わっている。これには西本は「もし江川投手が開幕投手だったら江川さんは僕みたいに偏ったピッチングはしないので、他チームの投手は江川さんの攻め方を参考にしたはず。僕の攻め方があったからこそ落合さんは無冠に終わったんだろう。」と語っている。また、このときに中日の監督だった星野仙一はこのピッチングを見ていつか西本を獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた[3]。
同期入団でドラフト1位だった定岡正二をライバルとしていたが、後に江川がライバルとなった。藤田監督は、両者を競わせることで、好成績につなげた。江川とは8年間開幕投手を争った。その後は皆川睦雄投手コーチとの確執もあり思うような成績を残すことが出来なかった。球団は二人を和解させようとしてオフに和解ゴルフをさせたがマスコミには「茶番劇」と書かれ、二人のギクシャクした関係はとても和解したとは言い難かった。